大森海岸の歴史

海水浴場として賑わった大森海岸
京浜急行線大森海岸駅
品川から京浜急行線に乗ると「大森海岸」という駅があります。駅を降りて改札を抜けると、右手に線路と平行して東京と神奈川を結ぶ大動脈・第一京浜国道が走っており、“海岸”という雰囲気は少しも感じられません。しかし、このあたり一帯は、戦前まで海苔の養殖が盛んな海岸であり、第一京浜のすぐ東側には砂浜が広がっていました。
大森海岸駅周辺が料亭や置屋が軒を並べる花街に変貌したのは、明治時代中期になってからです。当時は八幡海岸と呼ばれていた大森海岸に海水浴場が開設され、都心から最も近いビーチとして賑わうようになりました。
ほどなくこの発展に目をつけた実業家が海水浴場に隣接する土地に料亭を開業。鉱泉が湧き出たこともあって、趣向を凝らした料亭が続々とオープンし、やがて芸妓を派遣する置屋も営業を始めました。
その後、日露戦争(1904〜1905年)の好景気を受け、大森海岸は海辺に面した風光明媚な花街として人気を集めます。昭和の時代に入ると大森海岸芸妓組合も設立され、芸妓置屋56軒、芸妓240名を超える東京有数の花街に成長したのです。

隣接する南大井などにも花街が発展
かつては砂浜が広がり
多くの料亭が軒を連ねていた第一京浜国道
「大森海岸三業地」と呼ばれた当時の花街は、京浜急行線大森海岸駅の南側に広がっていました。料亭の多くは第一京浜の東側(海側)に集中し、芸妓置屋も現在の磐井神社北側から大森北公園までの間で営業していました。
大森海岸の花柳界に隣接していたのが「大井三業地」です。こちらも海水浴場の開設とともに発展し、最盛期には芸妓が200名ほどいたといわれています。また、昭和の時代になると平和島駅の東側一帯が埋め立てられ、「大森新地」と呼ばれる新たな花街も誕生します。
つまり現在の品川区南大井2・3丁目から大田区大森本町にかけての広範な地域一帯が、料亭や茶屋などが連なる花街だったというわけです。

最盛期には400名近い芸妓が在籍
ビルの間には芸妓置屋だった家屋も
現在も残る料亭「梅本」の建物
花街としての大森海岸は、戦前の昭和10 (1935) 年頃から太平洋戦争勃発前の昭和16(1941)年に最盛期を迎えます。当時は大森海岸地区だけで380名の芸妓が在籍していたといわれています。
戦後の復興が始まると、朝鮮戦争(1950〜53年)の好景気もあって、大森海岸の花柳界は再び賑やかさを取り戻します。しかし、周辺では海岸の埋め立てが進み、次第に料亭や置屋の数は少なくなっていきました。それでも高度成長期の昭和40年代には、まだ200名の芸妓がいたといわれています。
現在、当時の花街だった地域は高層マンションが林立するビル街へと変わりました。その多くは広大な敷地を誇っていた料亭の跡地に建てられたものです。しかし、大森海岸駅周辺には今でも料亭として使われていた建物などが残っており、当時の片鱗を見ることができます。
参考資料:『東京 花街・粋な街』(街と暮らし社)、『花街 異空間の都市史』(朝日新聞社)ほか
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